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執筆者の写真教育エジソン

音楽を聴いてイメージする


 「瞑想とは何か」という問いに対する私なりの答えは、「自己の内面に深く集中し、心身の自発的な反応・活動を味わうこと」である。そこが、単なるリラックスとは違う。

 そのことは、音楽を聴いて瞑想する場合で考えるとわかりやすい。つまり、ただ音楽を聞いてくつろいでいても瞑想にならないが、音楽が自分の心に呼び起こすイメージを味わおうとすれば、それは瞑想になる。

 だが、半ば音楽に触発されながらも、イメージはそれ自体の連想的なつながり、流れを持っていて、次々と発展していく。それに素直に従っていこうとするのが基本的な意識の持ち方で、仮にイメージを操作する場合でもイメージの自発的な動きに沿いながら、無理のないように仕向けていく。そうした意識の持ち方(瞑想的注意集中)を練習することによって、ふだん抑えられている無意識のメカニズムを活用しやすくなり、心身にさまざまな回復効果、開発効果をもたらすのである。

 もっとも私の場合、毎朝の瞑想の中で音楽を流すのは、最後のところだけである。あらかじめヘッドホンをつけ、スイッチが入れやすいように手近にウオークマンをおく。

 自律訓練法を導入として心身を深いリラックス状態(自己催眠的な状態)におき、そこからイメージの世界に入っていくのが私の瞑想のやり方だが、導入のところで音楽を流しても、うまく行かないことが多い。音楽でいい気分になっても、内面への注意集中が深まらなければ、瞑想には入れないのである。

 ただ最近は、瞑想を始める前に姿勢を整えながら、とりあえず一曲聴いて、心を落ちつける、それからテープを止めて、瞑想にはいっていく、ということが多くなった。というのは、朝起きて、まず子どもの世話を中心に持ち分の家事を片づけ、子どもの食事・トイレが済んでから、ようやく一間のふすまを閉め、瞑想ができる、という状態で、気分の切り換えが必要になったからである。その意味でも、音楽はありかたい。

 ちなみに、2歳半の息子も私の瞑想の習慣は心得たもので、私が準備を始めると、「バイバーイ」と言いながらふすまを閉め、おとなしく隣の部屋で遊んでいる。瞑想が終わり、私が背伸びをする気配がすると、すぐにふすまを開けて寄ってくるのである。

 そんな環境で、以前ほど深い瞑想ができることは稀になったが、それでも習慣は崩さずに続けている。

 自律訓練法とイメージ指圧による導入の後、イメージの世界に入り、瞑想の館の部屋部屋をたどる。各部屋の役割と配列がある程度決まっているから、それに沿って行けば、音楽がなくとも、イメージヘの集中は持続できる。それらの最後に、館を出て海岸に立つとか、地下にある大劇場の特等席に着くなど、いくつかあるパターンのどれかで、自発イメージの展開を待ち受けるシチュエーションに身をおく。それからおもむろに音楽をスタートさせる。

 テープはその日の気分で選ぶが、アーティストによって、どんなイメージに向くかの傾向が明らかにあるから、自然と自分の見たいイメージに合わせて曲を選ぶことになる。

 たとえば、前回紹介した姫神なら、昔訪れた海や山や街の風景が出てきて、旅の思い出が鮮やかによみがえる。宗次郎なら、森の中で木の香に包まれてのんびり過ごしたり、幼い日の忘れていた記憶が次々と目の前に現われてきたりする。喜多郎なら、エキゾチックな町並みや古代遺跡にたたずみ、いつの間にか、空間や時間を超越した世界ヘトリップしていく、といった具合である。

 イメージは、作ろうとするより心に自然と浮かんでくるものをうまくつかまえ、その流れに身を任せ、思いがけない展開を楽しむ、という感じが大切である。だが、自力でそれを保つことは、音楽がなければ難しい。

 うまくいってイメージがどんどん展開するときは本当に楽しく、後の気分が最高にいい。優れた音楽は、その至福の体験をもたらしてくれるよきパートナーなのである。

1997年2月

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