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執筆者の写真教育エジソン

アイデアがひらめくとき


 2年前。2年生の担任。文化祭の劇のシナリオ書きを「先生に!」という話になった。ことの是非はさておき、私は引き受けた。

 元ネタは、映画「怪盗ルビイ』 (1988監督和田誠)である。真田広之扮するまじめサラリーマンが、大犯罪を夢見る不思議な少女ルビイ(小泉今日子)に次々と窃盗計画の片棒をかつがされるが、思わぬドジの連続で、やがて、2人の間に恋が芽生える……というラブコメディである。

 一つ一つの窃盗計画が小さな山場とオチを持つので、観客を引きつけやすい。案外、筆は楽々と進んだ。しかし、結末がなかなかうまく行かない。映画では、とるに足らないことでも彼女のためなら一生懸命やる彼の一途さにルビイがようやく気づき、自然にラブシーンに……という流れになるのだが、私のシナリオでは、途中経過をはしょっているし、舞台で演じる関係から、その辺のルビイの心理変化を自然に見せるのはむずかしい。順調に進んできたシナリオの筆は、そこではたと止まってしまった。

 結局アイデアが浮かぶまでの数日間、意識的に考えることの他に、朝の瞑想の中で次のようなことをした。

①イメージの中の劇場で、舞台に生徒たちを登場させて、それまでのシナリオを演じさ

せ、結末の試案をあれこれやらせてみる。

 ②瞑想の中の書斎でも考え、さらに考え続ける自分の分身にあとを任せて、書斎に続く中庭で、自由に散策させておく。

 2、3日たったころ、私は出勤前に温水プールに寄って泳ぎ、道々、シナリオの結末を考えたりしていた。正午に学校へ着き、誰もいない職員室で、レンタルで借りた『怪盗ルビイ」のサントラをかけながら、昼食のパンにかぶりついた。小泉今日子の歌う、パンチのきいた主題曲。そのさびのところにさしかかったとき、何の前触れもなく、突然、私の頭に結末のアイデアがひらめいた。

 映画では、愛を自覚し合った2人が、窓の外の星空を眺めながら、「宝石店でちょろまかした指輪をガラスケースの裏にガムでくっつけ、あとでそれを取りに行って……」と、次の犯罪の計画を話し合うところでエンディングテーマが流れるのだが、その犯罪がヒントになって、次のような結末が浮かんだ。

 ルビイが指輪をガムでつけてくる。それを彼があとから取りに行く。今度こそ犯罪成功かと待ち受けているところに、帰ってきた彼は「まだ指輪は宝石店のケースの裏さ」とうそぶく。ルビイがむくれてそっぽを向くと、彼は「はい」と指輪のケースを差し出す。

 「ちゃんとやってるじゃない」と、ルビイが喜んでケースを開けると、それは、彼女がガムでつけておいたダイヤではなく、真っ赤なルビー。彼が分割払いで買ってきた婚約指輪だった……という結末。

 一瞬で一連のストーリーができあがり、それがいいものであることは、直観的にわかった。私は、職員室に1人きりなのをさいわい「そうか、やったぞ!」と叫んで踊り上がった。それほどの突き上げる喜びが、その発想の瞬間には伴っていた。まさに天から与えられたアイデア、という感じがした。

 その後、生徒たちはこの劇に熱心に取り組んだ。クラスの輪も強まり、私には、思い出深い文化祭となった。

 ここまで劇的でなくとも、似たような経験はしばしばある。授業のやり方なども、考えるのをやめたあと、何気ない拍子にアイデアがひらめく。ひらめく場所は、トイレだ、風呂場だという人もいるが、私の場合、通勤電車で吊革につかまった姿勢が、最も多い。

 やはり、よく考えたあとに休み、緊張の解けた時に思いがけないアイデアがわく、というのは、発明発見の基本的プロセスらしい。

 意識的には考えるのをやめても、脳の無意識の部分では、膨大な記憶データを参照して、あれこれ考えをひねり続けている。

 瞑想の中で分身に先を任せておく、という象徴的イメージは、がんぱってくれている潜在意識への信頼のメッセージなのである。

1995年12月

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