温泉瞑想の楽しみ
もともと銭湯、温泉の類は好きなのだが、職場の旅行が温泉だと聞くと最近は小躍りしてしまう。温泉での瞑想が実に快適だからである。
体を洗って湯につかると、安定してよりかかれるところを探し、両脚を伸ばして目を閉じる。フーッと息を吐きながら、「手足が重く、温か~い、呼吸が楽だ~、太陽神経叢が温か~い、……」と、心の中で唱える。ご存じ、自律訓練法の基本公式である。
それらの実感はすぐ出るので、いつも瞑想でやっている「イメージ指圧」に移る。これは、頭のてっぺんから足の裏まで全身の指圧のツボを順にイメージで押し、温めるというものである。
湯の中でここまでやると、完全に全身がほぐれて、天国の気分とでも言うほかはない。ぬるい湯なら、しばらくその状態を味わったのち、熱めの湯なら、イメージ指圧が完了してすぐ、手足を屈伸させて目を開け、湯から上がる。
上がったら、手近な岩や腰掛けの上で小休止する。休のほてりが鎮まったら、そのまましっかり腰を立てた瞑想の姿勢をとり、目を閉じて再び瞑想にはいる。心身が深くリラックスして集中した状態にすぐなれるので、しばらくは自由なイメージの世界にひたる。
10分ほどもイメージの世界に遊んだら、いったん瞑想を解き、手足の屈伸運動を少ししてから、再び湯につかり、今までの流れをまた初めからくり返す。
この手順で、4、5回は湯につかる。1時間以上は風呂場にいることになる。一緒に来た同僚たちは先に上がってしまい、のんびりと湯を出て部屋へ戻ったら、もう私抜きで宴会が始まっていた、などということもある。同僚たちも、もうすっかり「あいつはほっとけ」という扱いになってしまっている。
この温泉での瞑想自体、至上の体験だが、さらにありがたいことに、帰宅した翌朝からの瞑想がものすごく深くなる。短時間の導入で深くまではいり、イメージの鮮明度も商い。
毎日続けることは反面、マンネリの傾向もはらんでいる。それが、温泉の効果で、深い瞑想の実感を取り戻せる。
それでもやはり、しばらくすると次第に効果は薄れてくるので、もっとしばしば温泉に行きたいと思う。
我が家の近所に、戦前に大温泉郷だったという「綱島」という町がある。往時の名残をとどめる温泉浴場が一軒だけ残っている。午前中からやっているので、疲れがたまっていたり、瞑想のうまく行かない日が続くときには、そこヘ1時間ほどつかりに行く。
やることは、職員旅行のときと変わらない。湯の中で自律訓練法から、イメージ指圧をやり、上がってまた瞑想をくリ返す。
とくに心身の疲れが激しかったあるとき、洗い場での瞑想の中でふと、瞑想の中に登場する私の分身全員に、休みを出すことを思いついた。
私の瞑想では、部屋から部屋をたどる。そこここに私の分身がいる。プールで水泳の練習をくり返したり、庭を歩き回って授業のアイデアを練ったりしている。
そうした分身をおくことで、私は、いくつかの場に同時に関わり、それぞれの課題を抱えている多忙な実生活を、何とか乗り切っている面がある。
しかし、その日は、そんな自分にほとほと疲れ切っていた。そこで私はそれらの分身を全員、慰安旅行に連れ出すことにした。
1人ひとりを職務から関放して、マイクロバスに乗せ、綱島の温泉浴場に横づけする。みんなどやどやと降りて、思い思いに風呂にはいる。
にぎやかな分身たちに囲まれて私は、何のしがらみもなく空っぽになった心と体が、伸び伸びと自由なのを感じていた。
1994年11月