授業前の発音発声練習
私はときどき、発音発声の練習をする。空いている視聴覚室などに入りこんで、ひとりで大声を出す。授業前にそのための時間をとるのを日課にしていた時期もある。
立つか腰掛けるかして、心身をリラックスさせ、アーと腹から出した声を向こうの壁にぶつける。それをくりかえし、喉が温まったら「アの口の形のままで、イ、ウ、エ、オの音を出す」という練習にはいる。
竹内敏晴氏の著書の中にあった。そんなことができるのかと半信半疑で試してみたら、初めはむずかしかったが、慣れるにつれ、これをすると発音がとても楽になるのを実感して、病みつきになった。
私のやり方はこうである。少し口や舌を動かす練習をした後、軽くアの形であごの動きを固定したまま、例えば、エと言ってみる。あごを動かさずに、ア、エ、ア、エとくりかえし発音する。これをイ、オ、ウでも同様に行う。あごの動きに頼らないようにすると、舌の付け根を持ち上げたり寝かせたり、喉の形を変えたりして、何とか出そうとする。
五つの母音の違いはふつう、口(唇)の形で言われるが、本来は、もっと奥の方、舌と口腔と喉とで作る立体的な空間の形が問題だとわかってくる。例えば、オのときは、舌の根が縮まって、喉を広げ、ロの奥と喉とが奥深い花瓶のようになる。
実際にやってみると、初めはとてもやりにくく、首や肩が不必要に緊張してくるのがわかる。そこでリラクセイションのコツを活用して力を抜き、目を閉じて、自分の口の中を立体的なイメージで感じようとしてみる。
身体各部の知覚神経が大脳の表面に分布する割合は平等でなく、ロは手指と並んで大きな面積を占めているという。そのせいか、口の中に注意を集中していると、イメージの中では、ほとんど顔いっぱいくらいがロで、それを全身の筋肉で動かしているような気がしてくる。例えば、イのときは、からだの中身が全部脳天の上の方へ引っ張られるような感じがする。エのときは、全身が左右に引っ張られ、上下にぺしゃんこになりそうになる。
この練習をしばらくくりかえしたのち、今度はふつうの口の形でお定まりのアエイウエオアオ、カケキクケコカコ……の発声をすると、とても楽にできる。そのあと早口ことばを行うが、私がもっとも気にいっているのは、「ういろう売りの台詞」である。
大道芸人が、巧みな口上で万病に利くと称するういろう(丸薬)を売る。口をよく動かさないと言えない地名やシャレが続いた後、実際に薬を飲んで見せ、一番の効能は舌がよく回ることだとぱかり、次々と早口ことばをまくしたてる。発音練習のプログラムが1つのストーリーになっているのが見事である。
通してやると8分位かかるが、何度も読んでいると、ことばの調子で自然に暗記してしまう。いったん頭にはいれば、本を持たずに踊ったり跳ねたりしながらできる。
体を動かしながらやるのは、発音のためというより、身体と心を解放する役に立つ。3、40分の発声練習で声とことばがよく出るだけでなく、気持ちもオープンになって、本来の自分が出てくる気がする。
生徒にはどんどん自分から近づいて行ってにこやかに話しかけたくなる。たまたま相手に屈折した態度があっても、振り回されず前向きに対処できるという自信が心の底からわいてくる。授業の準備としては最高である。
しかし、気分がハイになっていることを自覚しコントロールしないと、少し危ない。気づかずに場違いな大声でしゃべってみんなに振り返られたり、「先生酔っ払っているんじゃないの?」などと言われたこともある。きっと顔も赤くなっていたのだろう。
もっとも、そこまでいくほど時間を掛けることはなかなかできない。昨年、子どもが生まれて以来の生活習慣の変化で、なおさらサボりがちなのが実情である。しかし、こういった訓練のありがたさは、とにかく時間を作って行動しさえすれば結果が出る点にある。新学期からはまた、日常的な習慣として取り戻したいと思う。
1995年4月