手の美術館にて(指の骨折①)
ハンドギャラリー、手の美術館。埼玉S会病院の片隅に、手を象った彫刻や絵画、調度品を集めた展示コーナーがある。私の手術を執刀してくれたK先生が、手の外科専門医としての想いから、折に触れて集めて来られたものだという。5日間の入院中、毎日一度は下のロビーまで降りて、そのコレクションを眺めていた。
北米先住民が描いた渦巻き模様の手のひら。友情と平和を表すという。仏像のさまざまな手の印相やキリスト教美術の祈りの手にも、あらためて眺めてみると、実に深い表情がある。伸ばした指と曲げた指、手首の角度、指と指のからみ具合。手の彫刻も、調度品も、それを作った人の思いをうけとめて、さまざまなものを語りかけてくる――。
朝の満員電車でドアの戸袋に右手を引き込まれ、薬指を骨折したのは、ちょうど一年前のことだった。初期診断が不十分で、2ヵ所にわたる関節内の粉砕骨折であることがわかり、K市の病院で固定手術を受けたときには、事故から2週間がたっていた。けっきょく、1ヵ月半は、固定具と包帯で厳重にガードされて、右手はほとんど使えなかった。
それでも、この包帯が取れればまた元通りの右手に戻る、そう思えば、初めての骨折も貴重な体験であり、不自由さを補うためにあれこれ工夫するのもまた楽しかった。
年が明けて早々に、骨を固定していた6本の鋼線を抜いて、右手が自由になった。そっと包帯を取って、1ヵ月半の垢を湯の中でやさしく洗い落とした。まさか、それが長い闘いの始まりだとは、夢にも思わずにいた。
骨折は治ったので、近所の開業医でリハビリに取組んだ。硬くなった関節を元通り動くようにするため、強い力でじわじわと曲げたり伸ばしたりされる。痛みにじっと耐える。自分でもふだんから、薬指をマッサージしては、曲げ伸ばしをくり返した。
しかし、思うようにはよくならない。1月ほどで、ある程度まで動くようになったが、回復はそこまでだった。第1関節はほとんど自力では動かない。第2関節もわずかに曲がるだけなので、コップは握れるが、棒をつかむと、薬指だけ斜めに立っている。逆に、手を開き指をそろえても、関節が完全には伸びないので、薬指だけが、ずんぐりと湾曲している。じゃんけんをするにもためらってしまう。
病院には通い続けたが、医師の見通しは芳しくない。まもなく事故から1年が経とうとする。このまま後遺症として諦めるのはつらい。何か方法はないかと医師に相談したところ、手の外科研究所のある埼玉S会病院を紹介された。所長のK先生は、日本手の外科学会名誉会長で、手指の手術については、指折りの権威だという。温厚な老教授といった風情で、眼差しが優しい。私の薬指を丹念に診察して、長期間の固定で癒着してしまった腱をはがす手術を勧めた。4泊5日の入院が必要だと言うので、考えた結果、何とか仕事を段取りして、手術を受けることにした。
授業は計画的に自習課題を組み入れ、担任の留守は副担任にお願いして、11月末に入院、手術をした。片腕を麻酔して、指の内側を切開し、癒着をはがす。手術直後からリハビリができるように、一針一針縫っては結ぶという丁寧さで、約2時間の手術だった。
短い入院だったが、いろいろなケガで入院している人を見た。とくに手の傷害は悲惨なものが多く、私のケガなど、いかに軽い方かということがわかった。
2人部屋で同室になった男性は、足の骨折で入院していたが、私の手の話を聞いて、子どものころガラスで切った跡のある右手の薬指を見せてくれた。やや曲がっていて、やはり完全には伸びない。私とまったく同じ指で、何か不思議な因縁を感じた。
自分自身がケガをしてみると、子どものころのケガで指が伸びないとか、交通事故の後遺症を抱えているなどと、何気なく教えてくれる人が少なくない。知らないだけで、実は多くの人がハンデを抱えて生きている。そのことが、私の目を開き、手を持つことのありがたさに気づかせてくれたのはまちがいない。
2005.1.