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執筆者の写真教育エジソン

息子との対話


 息子は、この4月から小学校2年生。自分の子ども時代と重ね合わせて、その気持ちを考えてあげられる年齢になってきた。

 息子との対話の基本は、まず共感。子どもが「見て!」というものはよく見る。なるべく好奇心を共有しようとして、見たものには、自分なりに生き生きと反応する。また、この年代の子どもは質問魔だが、すぐに答を教えるのではなく、考えるためのヒントや、考え方のステップを示すようにしている。

 この春も、2人で2泊3日の房総の旅に出かけたが、そんな対話を心がけていると、こちらも実に楽しい。しかし、実は、東京ディズニーランドよりも鴨川シーワールドを選ぶ、というところに、さりげなく父の価値観を込めている。自分が大切と考える価値の枠組みを与えつつ、その範囲内で、子どもの「好き」「楽しい」を尊重し、共感して楽しむ。すると、私が育ってほしいと考える方向性の中で、子どもはのびのびと育っていくのではと思う。

 そんな旅の初め、いつものように電車の中で何気なく話していたら、降り際、熟年の女性に声を掛けられた。「ずっと会話を聴いていたけど、すばらしいお父さんね」と言ってくださった。品がよく、知的で活動的な感じがする。教育には見識をお持ちの方とお見受けした。ご自分なりの視点から、私の息子との対話を評価してくださったのだろう。「お恥ずかしい」と返しつつも、「そのおことばを励みにがんばることといたします」とお答えして別れた。

 しかし、そうかっこよくばかりはしていられないのが、現実でもある。

息子は、何かに熱中すると他のことが目に入らないし、終るまで梃子でも動かない。いや、延々と終りが来ない。それは大事な資質だと思うし、実際そう育てても来たのだが、日常生活の起床・洗面・食事・身支度と行住坐臥すべてにおいてそうなので、参ってしまう。本に熱中したり、何か作り始めたり、洗面所に行けば、水の不思議に魅せられて実験を始めてしまう。相手がTVゲームでないのはさすが我が息子と、時間のあるときは好きにさせておくが、いつもそうとは行かないのが日常で、これが今一番、私と母を悩ませている。

 私の応対の基本は「親業」(連載⑲参照)で、子どもの関心には共感しつつ、私メッセージで、「遅れると困るなあ」などと伝える。母も学歴はないが読書家で、人間関係や対話の仕方についてよく読み、考えているので、似た対応をしてくれる。しかし、ことはあまりに日常的なので、それだけでは、一向に進まない。

 最後は私も母も、つい大きな声になったり、「早くしないと連れていかないぞ」などと、脅しに出たりもしてしまう。それがいい方法だとは考えていないが、子どもを受けいれ、その成長を見守る姿勢さえ失わなければ、へんに罪悪感を持つ必要はないのではとも思う。

 やはり子育ては、一筋縄ではいかない世界である。私が息子に焦れて声を荒げる姿も、あのご婦人のお目に掛けたいものだと、ふと思ってみたりする。

2002.4.

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